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□■ 絵 心 の ま ま に □■




第一章:ボクの履歴


第六節:厳しさと喜び


某印刷会社の企画制作課へ“学校の七光り”で就職に漕ぎ着けて入社したボクは、

早速現場の厳しさに圧倒されてしまいまいた。実感と言うか直感と言うか、

「専門学校では優秀(自分で優秀と称するのもおかしな話だが)でも、

現場では何も通用しない!のでは?」そう感じたのです。

現実的に専門学校で「これは現場ですぐに役立つから‥‥」と、言われて学んだ事も

そこではほとんど役に立たず(在学中に“はたして本当に役立つのだろうか?”

と疑問に思った事は多々あったが)、学力が乏しいボクは他に再就職するだけの度胸もなく、

入社後の毎日が大変心細く憂鬱な日々でした。その企画制作課にはグループが二つあって、

そのグループを統括する課長が各一人ずついました。仮にF課長とO課長としましょう。

それにボクの通っていたデザイン専門学校の諸先輩方が数多くいて、初めのうちは

在学中にボクが親しくしていた一つ上(学年が上なだけで、年齢はボクより四つ歳上だった)

の先輩に、いろいろ分からない事を教えてもらっていました。

ボクはその内のO課長グループへ配属されました。

課長二人は以前からずーぅっと仲が悪く衝突ばかりしていたそうです。

想えば一つの課に二人の課長が存在する訳ですから、まぁ当然と言えば当然だったのですが。

O課長は当時28歳だったと思いますが、その企画制作課の課長を五年勤めていると、

先輩達に聞きました。それで課は上手く廻っていたと言う事なのですが、ボクが入社する二年程前、

営業部長によって何処からか引き抜かれてF課長が課に加入したそうです。

入社当時ボクはF課長の第一印象を、“いかにもデザイナーだなぁ〜”と感じていました。

実際の仕事内様もポスターやカタログといった見た目に格好良い物がほとんどで、

イラストやロケーション(社外へ出て写真撮影)等、いかにも楽しそうな雰囲気でした。

ボクはF課長のグループが凄くうらやましくてしかたありませんでした。

だって、ボクがやりたい事(当時はそう思い込んでいた)ばかりやっているんですから。

一方ボクがいるグループは、毎日毎日安物の刷り込みチラシ

(売り込む商品が大枠で既に印刷され、一部分が余白になっていて、

あとからその部分に各販売店等の売り込み概要を印刷する広告)や、

某大手旅行代理店の旅行パンフレットのデザインばかり。

皆さんも一度は旅行パンフレットをご覧になった事あると思いますが、デザインといっても、

きめられたスペースに必要事項を納めていくだけのもの。

ボクが当時目指していた(脳裏に描いていた)ものとは大きくくい違っていました。

(こんな事していたって、イラストレーターになんかなれるのか?)

最初の印象(第一印象)やはり重要(自分にとって)な事で、

はた目に格好良く見えた物がどうしてもあこがれの先端を行くボクには、

F課長グループの仕事に加わりたいと願うばかり。と同時に、O課長グループの仕事には、

日に日に飽きが増してしまいました。悪い人ではありませんでしたが、

人間的にO課長をどうしても好きになれなかった事も理由にあげられます。

毎日仕事をこなしていて、面白くないどころか“苦痛”に感じてしまい、

膨大なストレスとなってしまいました。

「もうこれでは続けられない!」

そう思ったボクは、一度常務に相談しました。

常務は専門学校の校長と当時の担任だった先生と大変親しく、

ボクが就職出来たのも常務と校長達の助太刀があったおかげでした。

常務はボクに優しく説教しました。「瀧君!社会に出ればそれまでの学生の時と違って、

いろいろ思う様にならない事が沢山ある。そのハードルを一つ一つ丹念に乗り越えて皆成長し、

そしてそれぞれの夢を実現して行くんだよ」と。その言葉を聞いて、

ボクなりに理解はしましたし、いたく感謝感銘して涙を流した事を今もよく覚えています。

一度は常務の“もう少し頑張ってみようよ”の言葉で踏み止まったものの、

それから約三ヶ月後にボクは直属の上司に挨拶もなくその印刷会社を一方的に退社しました。

入社からちょうど半年でした。

後先考えず、その時の感情で半ば放棄した様に職場を失った翌日、既に現実が待っていました。

(それでも待ってくれているだけ当時はまだ幸せだった様に、今想い起こすと感じる)

働かなければ何も出来ないし、生きて行けないのです。

そう言う中で初めて真剣にいろいろと考えました。(考える時間は膨大にあったから)

また、それ以上に感じた事がありました。

“何もする事がないと言う事が、どんなに辛くて悲しい事なんだろう”

それでも、会社組織で振り回されるのはどうしても嫌で、

まずは在学中に指導してもらった恩師を尋ねて事の経緯を話し、

いろいろとアドバイスをもらいました。

その専門学校の恩師がボクにとってののちの師匠となる訳ですが、

恩師はボクの性格をズバリ見抜いていて、その時はさすがに散々お説教され、

そして話の最後にこう言われました。

「もしまだデザインの仕事やイラストの仕事に対して、やる気があるのならオレの所にこい!」と。

ボクはしばらく考える時間がほしいと恩師に言い、恩師も承諾しました。

当時ボクはまだ運転免許を取得していなかったので、まず運転免許を取る事を決めていました。

そして恩師の所へ行くのはそれからにしようと決めていたからです。

更に当面の生活費を稼ぐ為、学生時代にしていたアルバイト先に事情を話し、

再び雇ってもらう事になりました。

(当時は今と違って、随分景気も良くてアルバイトでも一件だけで10数万円位になった)

あの数日の事は今でもよく覚えていますが、それはもう大変に慌ただしかったです。

こうして最低限の生活基盤を整えて、約一ヶ月半後にボクは再び恩師の事務所を尋ねました。

師匠の所へは取りあえず三年間で“いっぱし”の仕事が出来るノウハウを身につける

という約束で入りました。給料は毎月の交通費と研究費として30,000円をもらいました。

(生活費としては当然足りないので、その足りない分は全てアルバイトで稼いでいました)

師匠のアシスタントとしての生活は決して楽しい事ばかりではありませんでしたが、

金銭的にはともかくそれでも印刷会社にくらべれば全然ましでした。初めのうちは、

社会人としての礼儀作法を事細かく師匠から口癖の様に毎日毎日言われ続けられました。

「お前はまず仕事をする前に社会人としての自覚を持たなければダメ!」と。

かつてのボクならまたすぐすねて辞めてしまうのだろうけれど、

その時のボクはそれらを辛いとは一度も思いませんでした。

師匠は当時、某イラストレーターズクラブ会員のフリーランスのイラストレーターでしたが、

やがてボクはそのアシスタントとしての自覚を持ち、師匠の仕事を手伝う様になりました。

手伝いと言っても初めは筆洗の水を変えたり、絵の具の溶き皿を洗ったり、

部屋の掃除をしたりと雑務がほとんどでした。

師匠のアシスタントとして当然の事を毎日当然にこなしました。

「技術的に教える事は何もない。何でも自分でよく観て、自分で盗んでいけ!」

これが仕事中の師匠の口癖でした。

ボクは師匠の描いたイラストのタッチがすごく好きで、そのプロセスをよく観察したものです。

事務所に師匠がいて仕事(作業)をしている時は邪魔にならない様にして、

いない時はそれを手に取ってマジマジと観察しました。

(今思い返すと、きっと師匠がボクの為にわざとその様に

観察しやすく振る舞っていたのではないかと‥‥‥)

月日が経つにつれて、師匠はボクにも簡単なイラストや

師匠自身が手掛けているイラストの修正等の仕事を与えてくれる様になりました。

ここで普段いかに作業をよく観察しているかが試されました。

何も一から手取り足取り教えてはくれない。“よく観て、盗め”とはそう言う事なのです。

(でも真意に迫る一番の方法ではないかと、今ではそう思っています)

それでも時々ボクが描いたイラストを見て、直々に筆や鉛筆を持って技法を見せてくれたり、

アドバイスをしてくれました。そう言う時、師匠の口調は大変きつく厳しいので

正直腹が立つ事もありました。本当に“ボロカス”に言われて

それまで自分なりに積み上げてきた絵心に対するものが音を起てて崩れていきました。

もうプライドズタズタです。でも言われた通り、見せてもらった通りにしてみると

やはりそれ以前の物とは全く違い、自分でも驚きの仕上がりになりました。

そう、“その道で飯を食う”厳しさを知った瞬間でもありました。

在学中には見なかったし、教えてもらえなかった事(本当のプロとしての姿や技)を

今自分だけ改めて教えてもらっていると思うと、

師匠の厳しさや優しさが身にしみて嬉しく思ったものです。

本当に心からそう感じるのに入門して一年半かかりました。

それからは通常の雑務やイラストの仕事が楽しいばかりとなり、

やがて一人で営業にも出させてもらえる様になりました。

ある日師匠に、「タキ、事務所のすぐ近くに雑誌の出版社があるだろ?そこへ行ってこい」

と言われました。そこは以前師匠が雑誌のコラムに審査員として出入りしていた所でした。

新たに、“若い子でイラストやデザインを手掛けられる外注スタッフを捜している”

と師匠の所に話があったのだそうです。

「まぁ、お前で勤まるかどうか分からんが、行くからには仕事がもらえる様に話をつけてこい」

そう言われてと言うか、その頃にはボクにも多少の技量と自信もあったので

“これはいいチャンスだ”と張り切って出版社へおもむきました。

話をしてから何週間か経ち出版社から電話が入り、

雑誌の中頁のレイアウトやカット(挿し絵)の仕事が決まりました。

その話が決まった時はもう夢でも見ているかの様で、受話器ごしに自分の耳を疑った位です。

その仕事が事実上、本当に自分自身だけで先方と話をして取ったものでした。

しかも年間契約と言う事で毎年更新する形で、本当に嬉しく思いました。

「まぁ、しっかり頑張ってみろ!お前自信がどれだけやれるか試すいい機会だ」

「オレは何も手伝わんからな!」

「頑張ってみます」

師匠からの祝福の言葉でした。

雑誌の仕事は毎月順調にこなし、依頼される量も段々増えました。

いつしか別の月刊誌の表紙のメインイラストを手掛ける様になっていました。

その他それに加えて、新しく情報誌を発行する上で、

ボクにレイアウトからカットやメインイラスト全てを任せられる事になったのです。

制作スタッフは、編集長がそこのベテラン社員である他は、

ボクを含めて全員若い外部スタッフで賄われました。

そしてその出版社を中心にボクの仕事は確実に増えていきました。

その頃になるとある程度の仕事はこなせる自信もつき、

また営業に行って仕事が容易に取れる様になっていました。

自分でも欲が出てきてこっそり内職(師匠に内緒の仕事)を取ってきては自宅でコソコソこなし、

こっそり納品する様な事も頻繁にありました。

そう言った時、仕事先で知り合った会社経営コンサルタントの人に、

「いつまでもお師匠さんのカバン持ちばかりしてないで、

そろそろ違う会社へ再就職するか独立したら?」等と、いろいろアドバイスをもらいました。

自分でも“もうここを出る頃かな‥‥‥?”と感じ始めていた時期です。

その頃も名目はあくまで師匠のアシスタントでしたから、

このままいつまでもアシスタントを続けていても進歩がないし、

師匠もいつまでもボクのおもりは嫌だろう(自分にとって体裁のいい理由つけとして)と考え、

思いきって師匠に打ち明けました。

「その言葉を聞ける日、ずーぅッと待っとった。最近タキがコソコソ内職してるのも知っていたし、

オレもそろそろお前を鬱陶しく感じていた」

「タキィ!ビール買って来い!」

これがボクにとって最後のアシスタントとしての仕事でした。そして師匠と二人で乾杯しました。

「独立おめでとう!」

師匠が初めて優しく告げてくれた言葉です。涙が自然と溢れてきました。

「クライアントには今日付けで独立したと言え!

そしてちゃんと自分自身の名刺を作って明日からやっていけよ」

「事務所のカギはそのままお前に渡しておくから、何かあればいつでも訪ねてこい」

「それから明日からお前はオレのライバル(敵)だ。

もし街中で会っても、もうオレを先生とは言うな!」

「当面の必要な物は、これを使って画材屋で揃えろ!」

そう言ってボクを送りだしてくれました。

「お世話になりました。頑張ります!」

その足でまず、独立するにあたりアドバイスをくれたコンサルタントの人の所へ行き、

経緯とお礼を言い、常連の出版社にも挨拶を済ませて、一路画材屋へ向かいました。

画材屋で当面必要であろう機材等を師匠専用伝票で購入し車中をいっぱいにすると、

明日からの緊張感と期待感(希望)で胸いっぱいになって再び涙が溢れました。

そしてその嬉しさを噛み締めながら、宝の山(機材)を積んで、

ボクは実家にある自分の部屋(アトリエ)へ向かい、フリーランスの道を歩む事となった訳です。


                                      2002年7月執筆




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